「一歩前進」── 男子トイレから生まれたことばの力】

ことばの宿

貼り紙ひとつに、こんなにも悩む日が来るとは思っていなかった。
それも、トイレの話である。
しかも男子トイレだ。

私は日々、店の掃除をしている。
その中で、いちばん気持ちが萎える瞬間がある。
それは、男子トイレの床が濡れているときだ。理由は明白。一歩前に出ていれば防げたであろう現象が、無数の形で床に残されている。

何度も拭いた。
何度も、「もうやめようか」と思った。
何度も、「これ、貼ってみようか」と思って、注意書きを書いた。

「前に出てください」
「汚さないように使ってください」
「床を濡らさないように!」

──でも、全部ダメだった。
張り紙を増やすたびに、反発するように汚される気さえした。

私が求めていたのは、命令とかそう言うことじゃない。
「気づいてもらう」ことだった。
「気づいて、自分から行動を変えてくれること」だった。

だから、一度ぜんぶ剥がして、考え直した。

命令でもなく、お願いでもなく、
それでいて、なぜか心が動いてしまう──
そんな言葉って、ないだろうか?

SNSやAIや、書籍を漁ってみた。
ことばのプロのような文章を読んでみたが、心にストンと来ない。
その中でふと、あるフレーズがよぎった。

「トイレの神様っているんだよな」

そうだ、神様からの視点にしてみたらどうだろう?
人が“言われた”と感じる言葉じゃなくて、
“見守られてる”と感じる言葉。

そこで私は、こんな貼り紙を書いた。


🟦 トイレの神様からのメッセージ(男子トイレ編)

私がこの男子トイレを守る神です。
あなたがここを訪れたとき、不運やモヤモヤをすべて流して、すっきりさせる覚悟はできています。
だから、あなたの悩みや嫌なこと、全部流してください。

トイレは、一歩前進の場所です。
過去を流し、新たな気持ちで次のステージに進んで欲しい。
私が後ろで全力で支えますから、安心して前に進んでください。

前進した貴方に幸あれ。
感謝と共に幸あれと願います。

それが、私の心からの願いです。

―― トイレの神より


この貼り紙をしてから、何かが変わった。
床がすべてきれいになったわけではない。けれど、確実に変化はあった。

ある日、トイレから戻ってきた奥さんが私に声をかけてきた。

「すみません、トイレの中に書いてあるあのことば……誰が書いたんですか?」
「どこかから引用したんですか?」

少し興奮気味に尋ねられた。
私は「自分で書きました」と照れながら答えた。
するとその方はふっと笑って、

「なんか…じんときました。旦那にも見せたいから、見に行かせますね」と言った。

それを聞いた旦那さんは笑いながら、「じゃあ、俺もご挨拶してくるか」とトイレへ。
きっと彼は“貼り紙”を見に行ったなんてこと、今まで一度もなかっただろう。
それでも、何かが彼を動かした。

それは、「命令」ではない。
「お願い」でもない。
ただ心をそっと撫でるような、見守る気配だったのかもしれない。

言葉の力は不思議だ。
伝えようとすればするほど、届かないこともある。
けれど、そっと添えるように置かれた言葉が、人をそっと動かす。

貼り紙ひとつに、何時間も悩んだ自分が、今ではちょっと誇らしい。
あのとき心折れずに、言葉を探し続けてよかった。

これは、「言葉の宿」の第2話。
また誰かの心を、そっと押すために。

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